『叙情寫眞』メールによるタイトル会議

6〜7月にかけてカマウチと中村氏の間で交わされたメールを編集して対話形式に整理してみました(実際の分量はこの倍以上あるんですけどね)。
明日から始まる『叙情寫眞』、見に来て下さった方が「で、結局叙情寫眞て何なの?」という疑問を解消できない場合、「サイトを見て下さい」という逃げを打てるように(笑)ここに公開しておきます。

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■写真は「表面以外」も写せるか

カマ 写真は「表面以外」も写せると思いますか?
中村 写せると言えば写せるし、写せないと言えば写せないのでは。私は写真をコトバ的なものととらえています。撮影者、被写体、鑑賞者、etc.の間に生まれる関係=コトの端部=ハが、写真ではないかと。
支持体上に現像・定着された画像は、それだけでは唯の単語のような物でしょう。むしろ写真における「表面」以外は、写真の内には無くて、コトバを成すヒト・モノ・コトの内に生ずるのでは?
一語に何らかの期待を込めて放つ事で、それが誰かに伝わるならば、写真にも同様なことが言えるような気がします。
カマ コト、の定義がわかりにくいですけど、なんかすごくいいですね。撮影者、被写体、鑑賞者、と三つ巴にしたところが斬新かなぁ。撮影者ー被写体、の関係はよく考えるし、撮影者ー鑑賞者の関係についても考えるけど、三つを相関させては、なぜか考えないんですよね。三つ全部取り込んでコトの端を交換するさまが、なんかいいなと思います。
中村 カマウチさんは写真をどのようなものと考えていますか?
カマ 写真はあくまで、僕と世界の交信手段です。世界のとらえ方、感じ方について、撮り続けることで関係を更新しているんだと思います。
写真は100%自分の意志通りには写らないし、偶然を味方に付けることができるし、常に不確定要素がある。その不確定な要素が、自分の凝り固まった意識を壊すきっかけになってくれる。それが写真の魅力で、壊しては作る、という作業のサイクルが早い。絵画は制作に時間がかかるし、自分の意図しないものが入りにくいので、このサイクルの早さは写真の最高の利点だと思う。
よくわからないので安易に「美意識」という言葉を使ってますが、この美意識(仮)ってやつは、世界を判断する基準になると同時に、認識を枠にはめてしまうやっかいなものでもあります。美意識(仮)を壊しては組み直す、いたちごっこのような「更新」が精神には必要で、それを自分で見つめるのに、写真がうってつけだと思うんです。

■「使い古された技法」について

カマ 質問を返します。アラーキーフレーミングだけが写真家の特権だ、みたいなことをいい、逆に最近の写真家の多くは「構図とか、そういうちっぽけな自分の美意識を被写体に当てはめるんじゃなくて、そのまま即物的に、まっすぐ撮る方がいい」みたいなことを言う人が多い。
良い構図っていうのは、たしかに歴史の多数決なんだけど、たとえばメイプルソープなんかがセルフポートレートを、ものすごく革命的な構図で撮ったりしても、次の瞬間に「メイプルソープ風」というスタイルにカウントされてしまう。そうやって、破壊するつもりでも、やっちゃったらその陣営に新たに加えられてしまうというジレンマがあり、で、みんながみんな「ぶっきらぼうにそのまま」だとか、「あえてノーファインダーで、フレーミング自体を避ける」方へ行ってしまう。
ピントに関してもそうで、ピントを浅くして、合っていない部分との差違で遠近感を表現する、という、最初は仕方なしに(だって写真は二次元だから)編み出した技法が、いつのまにか使い古されてしまって、変に叙情的な意味を帯び、最近の作家に避けられるようになってしまった。最近はみんな猫も杓子もパンフォーカス。
結局構図といい、フォーカスといい、昔から蓄積してきた「技法」を、「使い古されたもの」として忌避する傾向がありますよね。これに関しては中村さんはどうお考えですか?
中村 結局、アラーキーが言っている事がもっとも的確なのでは、と思います。
フレーミング」(私は写真家の『目』と言ってますけど)とは、写真家がどう見て、どう撮って、どう見せるかっていうことそのものだと言ってるんでしょうね。
だから、どんな技法・手法を使おうと、写真家の目がそうなっているなら仕方が無いんでしょう。写真家という、どうしても外せないフィルターを通してしか写真作品は出てこないってことですかね。使い古された技法・手法を避けたがる作家の心理は、よく解ります。いちおー作家のつもりですから(笑)
でも最近は、殆んど避けませんけどね。自分が使える技法・手法に、手垢の付いてないものなんて無いですから。

■カナシサについて

カマ こうやって、二人展のテーマのヒントを探すために、無理矢理に中村さんを質問攻めにして「言葉」を引き出そうとしているわけですが(笑)、正直、言葉が先にあって、それをよりどころにして写真をひねり出す、という方法は、ほんとにそれでいいのかな、とも思います。
僕自体は、まず何らかの「枷」をかけて、その枷の範囲内で自分の「写真を撮る力」みたいなものを強制的に絞り出す、みたいなことを今ままでやってたので、そういう風に方法論が先に立つ写真も面白いと思うけど、でも写真の力ってそういうのばかりじゃないぞ、とも思ってしまうのです。
中村 自分も方法論先行型ですし、写真の力に対して思うところには大いに共感します。前に、写真をコトバ的なものと捉えているとお話しましたが、そのコトを生じさせているモトは、かなり気障ったらしくて恥ずかしいんですが「愛しさ(カナシサ)」ではないかなぁと思っています。
で、写真行為でそのカナシサを追求していくと、写真家自身が身動きできなくなる、壊れてしまうというところまで行ってしまうんではないかと。
それを回避するべく、便宜的に方法論を先行させたり技術・技法にこだわったりするっていう考え方は、ちょっと行き過ぎでしょうかね?
で、今回の二人展、私も今までの方法論で写真をひねり出していくのは、チョッと苦しいなと感じています。ですが、このやり方以外となると、とんでもなく険しい道しか残らないのでは? という恐れも感じています。
カマ とても参考になります。「コトノハ」「カナシサ」等の語彙から滲むものを僕なりに消化して、撮ってみようかと思います。

■時間・瞬間について

中村 「写真は瞬間の芸術である」「写真は撮影された時点で過去の事象である」とよく言われます。
私はこういう写真の捉え方があまり好きではないのですが、カマウチさんは時間と写真の関係について、どのように考えていますか?
カマ 瞬間、って、本当はないでしょ。常に流れてる時間の、その一点を取り出すってことは、現実世界では不可能なわけで、瞬間ていうのは過ぎた時間を区分するための利便的なワンクリックでしかないわけですよね。
その取り出せない「瞬間」(厳密には「瞬間」じゃないけど)が、印画紙に写っている、という事象自体は、とてもスペクタクルだと思います。ていうか、もしかして「瞬間」って、カメラが発明されて高速シャッターを切れるようになってから発明された概念だったりして、なんて思います。
普段僕らの中を流れている時間とは別の論理の時間がそこへ写るわけでしょ。
いや、そうか、今僕らは線状の時間を生きているように思えるけど。実は「過去」は全部、線じゃなくて点の集積ですもんね。そこから「流れ」は消え去るわけだから。
てことは、現在「線」だと思っている時間も、実は「線」なんかじゃないって話になるんですけどね。ややこしい。
写真にしてしまえば、過去に序列はなくなってしまう。フリードランダーの『family』を見てそう思った、ということを前にHPに書きました。
過去の写真は、その時系列をシャッフルしても見るに堪える。30年前のフリードランダーと、2年前のフリードランダーを並べても、そこにフリードランダーによく似た彼の息子の成人した写真を並べても、違和感を感じない。
そういう「過去の写真」は、写真になった途端に現在生きている「線」(と僕らが思っているもの)から離脱してしまう。点の集積になるんだと思います。
「写真は撮影された時点で過去の事象である」というのは、だからまぁ、あたりまえといえばあたりまえの話で。
「写真は瞬間の芸術である」ってのは、あまり意味のない言辞ですね。
中村 写真と時間については、何だか世間一般で言われているような事は胡散臭いなって思っています。だから、カマウチさんの意見には共感大であります。
諸星大二郎の『孔子暗黒伝』に、時間を「時間子」という粒子構造でとらえるとエネルギーそのものであると書かれていました。チョッと気になってその事をいろいろ調べてみたんですけど、結局、彼がどこからこの説を引っ張ってきたのかわからなかったんですけど、粒子とエネルギーという語が光や銀粒子を連想させて、チョッと面白いと思いました。とにかく、一定のベクトルを持つ線的次元での時間の捉え方には違和感があるし、その上で写真を考えるのは、私は嫌です。

■写真とコトバ

中村 カマウチさんは「写真」と「コトバ」をどんな風に捉えていますか?
カマ 基本、写真に言葉は不要であると思ってます。使い古された言い方で申し訳ないけれども、言葉で語れないものを撮ってるんだ、というつもりです。
いいや、それじゃ駄目だ、現代のアートはコンセプトを言葉で語れなきゃ駄目なんだ、と言われても、誰が決めたんだそんなもん、というしかありません。
ただ、前にブログでも書いたように、写真の後ろに、千語万語の言葉が尽くされている写真じゃないと駄目だ、と思います。たとえばロバート・フランクの、悲鳴のような文字が刻まれた写真に胸を揺すぶられない人は写真なんか撮らなくてもいいんです。
ただ、中村さんの言ってた写真=事の端という、撮影者ー被写体ー鑑賞者の関係性についての考えは、とても美しいと思いました。「ことば」がそういう役割にとどまる限り、写真にとって有益なものとして存在できるのかなぁと思いました。
中村 養老猛司は「言葉は現実の世界と全く関係ない。その事を判っていないのは、日本人だけだ。だからオレオレ詐欺なんかに騙される」と言っていた。
自分達が普段に使っている日本語という言語は、コトノハという現実世界との関系性、一体性をより強く感じさせる気がします。
言葉が現実世界と無関係な訳は無くて、どこの国、どこの言語でも結びついているはずなんだけれど、その関係は「意味」だけにあるのか、それとも「コト」という関係そのものにあるかで、ちょっと結びつき方が変わってくるような。
カマウチさんが「言葉で語れないものを撮っているんだ」というのは、「写真というコトバで表しているんだ」って事なのかなって思います。意味をわざわざくっつけたりしないんだぞって。
写真に言葉をくっつけるというのは、写真に意味をくっつける、写真に「カタリ」をつける、「騙り」をつける事だと私は思っているのですが、でも、それはそれで別に悪いことでも無いとは思います。
写真がコトバであるなら、そういうものもくっついてくるかな、くらいの感覚です。
上手く全てを騙り通せるならば、それは写真にそれだけの力があるのでしょう。
その騙りで不幸を呼んでは勿論いけないんですけどね。

エントロピーと叙情

中村 タイトル候補。「エントロピー」ってどうですか?
カマ エントロピー=無秩序度、ですね。時間は流れではない、ということから考えていて、流れというと水平方向を考えるけど、流れでないなら何なんだ、というと、まず考えつくのが鉛直方向。沈殿とか蓄積とか積層とか降下とか。散って拡散して点になって落ちる、という風に考えたら、ははは、まさに「沈降速度」やんか(笑)福永君の言語センスって、今さらながら凄いなぁと。
時間が鉛直方向に移動すると、沈殿でも蓄積でも沈降でも、どうしてもノスタルジックな味付けを帯びそうだけど、じゃあ水平でも鉛直でもない方向はというと、霧散、拡散、遠心分離。繋がりがほぐれていくさま、つまりエントロピー
自分を更新することが写真の目的、みたいなことをこないだ書きましたが、更新して、どんどん古くさい繋がりを解く方へ解く方へと持って行きたい、つまりエントロピーなんだけど、本当にそんな新しい方へ、ずっと進みたいのか、というと、本当にそうなんだろうか。
古くさい繋がりって何か、というと、たとえば「叙情」という言葉が浮かびました。捨てたいものを、仮に「叙情」と名付けると、結局僕らは「叙情(仮)」を捨ててしまえばゴールしてしまうわけだから、更新もクソもないわけです。やっぱり「叙情(仮)」にとどまりたいくせに、古い叙情を嫌悪する。エントロピー方向へシバリを解きたい気持ちと、叙情に足を取られるその間でもがいてるんかなぁ、と思いました。叙情を捨てたいんじゃなくて、新しい叙情を探りたい、という気持ち。いや、叙情ごと投げてしまえ、という気持ち。再構築と、無秩序化。この間で揺れてるのが、写真なのかなぁ、って。
じゃあエントロピーだけじゃなくて「エントロピーと叙情」でどうですか?
本当は「叙情エントロピー」でどうだ、と思ったんだけど、なんか椎名林檎みたいだし(笑)
中村 物理学的には、物質が融解するときにはエントロピーが増大します。「叙情」は写真の状態を変化させる重要な要素(エネルギー)としてあるわけで、その変化のせめぎ合いの頂点を融解点とみるならば、こんなタイトルも有りかなって思います。
しかし「叙情(仮)」っていうのは、なかなか面白いですね。なんだか写真の表面上に係る「みせかけの力」みたいです。この「みせかけの力」は、実は写真そのものには係っていなくて、撮影者、被写体、鑑賞者に係っている位相の違う力って感じです。
カマ どんどん「叙情」って言葉にひっかかってきました。クドいから(仮)はとっちゃって「叙情」でいいんじゃないですかね。やっぱりあっさりしすぎだから何かくっつけたいというなら「叙情写真」? アラーキーぽくて、しかも意味なくて、いい感じ(笑)。「エントロピーと叙情」もやっぱり捨てがたいですが、これは拡散系ね。もしくは拡散させずに沈殿させるなら「重力と叙情」。シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』をややパクってる、というのは内緒です。
中村 我々は拡散系でいきましょう。椎名林檎的「叙情エントロピー」も捨てがたいけど、「叙情写真」かな。文字は「叙情寫眞」にしましょう。
カマ 決定です。

DM配布先です(順次追加します)

[大阪]
ギャラリー・ライムライト 
ギャラリーmaggot 
ナダール大阪  
Acru
サード・ギャラリー・アヤ
日本写真映像専門学校 
鈴木特殊カメラ 
カメラのナニワ・心斎橋本店  
写真マットとフレームの専門店 金丸真 
BEATS GALLERY
ブルームギャラリー 
フォトピア  
富士フィルムフォトサロン/大阪
Port Gallery T
ビジュアルアーツギャラリー(ビジュアルアーツ専門学校・大阪)

  
[神戸]
ギャラリー葉月 
Photo&Gallery Bar RITZ 
カメラのカツミ堂(元町アートギャラリー)
ギャラリーヤマキ・ファインアート  
TANTO TEMPO  

中村浩之+カマウチヒデキ『叙情寫眞』

kamauchi2009-08-03

使い古された技法を厭い、しかつめらしい意味づけを拒み、自分の属するフレームそのものを逸脱し、境界を解体していく力。
反対に、写真が写真であるための求心力、そもそも写真が写真として撮られるための理由について考え、万象の愛(かな)しさに思いを至らせること。

融解を促す力と、それに逆らい求心する意志の葛藤が写真なのだ、と勝手に結論づけた我々は、さらに勝手に「融解に逆らい求心する意志」を「叙情」(仮)と呼ぶことにしたのです。

あえて古びた手管や情緒を拒まず、しかしただ古くさい感傷に縛られず、常に「新らしい叙情」を見つけ記録していく作業の中でのたうつこと。

カマウチヒデキと中村浩之が探るそれぞれの『叙情寫眞』をお楽しみに。

2009年9月6日(日)〜12日(土)
ギャラリー☆ライムライト
12:00-19:00
(9日水曜日は休廊/展示最終日は18:00まで)

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